
はじめまして。英語上達実感トレーナーのAyakoです。初心者でも忙しい社会人でも、使える英語を身につけ、ビジネスで、プライベートで、広がる未来を体験していただくためのサポートをしています。
15年間の英語教育業界での経験、1000人以上の方の英語人生に関わってきた経験を活かし、コーチングとティーチング、第二言語習得理論や脳科学等を組み合わせ、一人一人に寄り添うパーソナルトレーニングを提供しています。
実は私も学生時代は英語が得意ではありませんでした。
ところが、英語が話せないまま参加した、海外文化を体験する語学研修で
「英語が出来るようになって、もっとコミュニケーションを楽しみたい!広がる世界を体験したい!」と強く思いました。
その後自分なりに学習を始め、英会話学校に通い、2ヶ月の語学研修、就職、ワーキングホリデー、英語指導法を学ぶ講座の末、英会話講師としてデビュー。
これまでの苦労や多くの学び、たくさんの生徒さんたちとのかけがえのない経験を糧に
英語はやれば必ずできるようになる
習得に必要なのは、「正しい学習法」と「継続」
という信念のもと、主に初中級レベルで自分では効果的な学習法が分からない社会人の皆さまに、未来を切り拓くツールとしての英語力、学習習慣、そして英語学習法を身につけていただくためのサービスを提供しています。
より皆さまのお役に立てるよう、疑問や質問などあれば、是非メッセージをいただけると嬉しいです。
英語が出来るようになるまでのマイストーリー
国語の先生になろうと思ったのに受験失敗
保健室の先生の課に入学するも、血を見るのは苦手・・・
さて、将来どうしよう
受験失敗から新たな道へ
以前。英語業界のある著名人の方の講演会で「今の英語力をいくらでなら売りますか?」と聞かれたことがあります。
「いくらもらっても売りたくない」私はそう思いました。
今の英語力を失うことでコミュニケーションが取れなくなる友人たち、得られなくなる海外の情報、楽しめなくなる本や映画・・・。
そして何より、英語を教えられなくなること。 英語とともに一瞬で消えるものを思うと、これまでの努力や経験によってお金には代えられない物を手に入れていることを実感しました。
そんな私の学生時代、英語は得意ではありませんでした。
私にとっての英語は完全に「暗記科目」。
テスト前に単語や文法を詰め込み、宿題の英訳は辞書を引いて出てきた意味を適当に組み合わせる・・・。
単語テストで不合格になって10回書きする時は、鉛筆を2本持って半分の労力で終わらせようとする・・・。
英語は、テストのためであり、受験のためであり、その先に何かがあるとは考えたこともありませんでした。

そんな高校時代の頃の将来の夢は国語の先生。4月生まれの長女の私は、子供の頃からお姉ちゃん気質、つまり、おせっかいの世話焼きでした。
幼稚園では、自分の準備もできていないのに、友達の準備を手伝うような子供。連絡帳には、「まずは自分のことを」 と書かれるほど・・・。
そんな気質もあってか、将来の夢はなんとなく「先生」でした。
国語の先生になってどうしたい、という強い気持ちがあったわけではありませんが、「先生になりたい」と、「国語が得意」が合わさって、ぼんやりと将来の目標になっていたのだと思います。
そして、大学受験。
第一希望の教育学部の国語科は不合格。
合格したのは同じ教育学部の養護教育課。 保健室の先生です。
「後期のテストがセンター試験の結果を送るだけ」という理由で受験した課で、よく調べもしないまま、新たな道に進むことになってしまいました。
大学生活は楽しく、新しい道も悪くないかと思い始めたところで、重大なことに気付きます。
「怪我を見るのが苦手かもしれない・・・」
蛙の解剖も見てられない、ひどい怪我を見たら自分も痛いような気がして貧血っぽくなる・・・。
将来、自分が保健の先生になることが想像できないでいました。
そんな時、パンフレットを見つけた「短期ホームステイ研修」 海外どころか飛行機にすら乗ったことがなかった私ですが、パンフレットの中に広がる、日本とは全く違う世界に心を奪われました。

そして大学2年の春休み、アメリカカリフォルニアでの3週間のホームステイ研修に参加したのです。
英語が出来ない私の初海外での事件
カタコト英語しか話せない状態でしたが、軽い気持ちで参加したホームステイ研修。
学生向けのこのプログラムには、日本各地から同年代の参加者が15名程参加していました。参加者の間ではほとんど日本語を話していたと思いますが、初めての海外です。
食べ物、景色、文化、言葉・・・。
全て日本と違うのが新鮮でした。ホストファミリーも、ガイドも兼ねた先生も、つたない英語を辛抱強く聞いてくれ、カタコトではありましたが、意思疎通ができるワクワク感を体験しました。
ただ、同時にもどかしさも感じていました。
参加者の中に英語が出来る子がいて、先生や現地の人とペラペラ話したり、時には私たちの通訳をしてくれたり・・・。
あんな風に話せたらいいなという憧れと、自分が思ったことが言葉にならないもどかしさ・・・。
そんなもどかしさが最高潮になったのは、ある週末、ホストファミリーと出かけた時の事です。
ホストファミリーは、小学生のお姉ちゃんと幼稚園の弟くんがいる4人家族でした。
その時も5人で出かけていました。サボテンを見に行く途中。両親は少し先を歩いていて、そのあと私、そして子供たち、というような順で道路沿いを歩いていました。 途中、両親が道路を渡って先へ進んでいったので、私も同じ様に横断歩道のない道路を横断。その直後、弟くんからこんな台詞。「お姉ちゃんを殺す気?」
私が道路を渡ったので、お姉ちゃんもその後を追って道路を渡ったようでした。そして、その後を車が通過したのです。
英語力のない私の記憶なので、弟くんがどういうつもりで言ったのか、実際にどんな言い方をしたのかははっきりしません。
でも、初心者の私に、“kill”という単語はとても重く響きました。

その後、両親が、大丈夫、とフォローしてくれましたが、はっきりどんなニュアンスで言っていたかは理解できませんでした。ちゃんと見てなくてごめんね、とか、そんなつもりなかったよとか、何か言えればよかったのですが、何の言葉もでてこないもどかしさ。
「もっとスムーズに英語でコミュニケーションが取れるようになりたい」
カタコトでの会話が楽しかったので、もっと深い会話をしたいという気持ちはもちろん大きかったのですが、この一件で「何かあった時でもきちんとコミュニケーションが取れる力が欲しい」と感じたのも事実です。このアメリカでの体験で、英語がテスト対策の「学問」ではなく「コミュニケーションツール」であることを実感したこと。
そして、通じる楽しさと、英語が出来ない悔しさ、もどかしさを同時に味わったこと。その2つがきっかけとなり、帰国後「英語をやる」と決意したのです。
自主的な英語学習スタート
帰国後、アルバイト代を貯め、近所の英会話スクールに入学しました。
下から2番目の初級クラスからのスタートです。
ちなみに、この学校とは違って私が勤務した大手英会話スクールでは予習を重要視していましたし、私自身もレッスンを受けるのであれば予習をした方が効果的だと思っています。
このスクールは予習がないタイプのレッスンでしたが、復習はしっかり行い、少しずつ話すことにも慣れていきました。
単語帳も作って地道に勉強。高校までと家でやっていることはそれほど変わらないのに、学んだことが会話につながると思うだけで、学習が楽しいと感じるようになったのです。
英会話のクラスは徐々にレベルアップし、とても楽しくレッスンに通っていました。
その頃には、保健の先生になるのは自分の中では現実的ではなくなっており、とりあえず英語の勉強は続けて一般企業に就職しようと考え始めます。
とはいえ、就職活動もそんなに甘いものではありません。
私のように、特に目的もなく、勤務地や待遇だけで就職しようとしている学生が内定をもらえるはずがありませんでした。
結局、就職してからは数ヶ月の休みを取るのは難しいという理由で就職を一旦あきらめ、卒業後はカナダ、バンクーバーでの2ヶ月の短期語学留学に参加することに。
大学時代に両親は離婚しており、パートで家計を支えていた母。余裕のない中、自分の夢ばかり語っていた私を全面的に応援してくれていたことには、感謝しかありません。
2度目の語学研修で感じたもどかしさ
さて、初回と違って準備して臨んだ2回目の語学研修です。
クラス分けでは中級クラスに入り、自分の言いたい事はある程度伝えられるようになってはいましたが、それでも、まだスラスラ話すには程遠いレベル。
1対1の会話は出来ても、ネイティブ2人で話している場に一緒にいると、話す文章を考えているうちに会話が流れてしまい、結局何も話せないで終わる、なんてことばかりでした。
それでも、こんな機会はもう2度とないと思い、学校では日本人のクラスメイトとも英語で話し、毎日英語で日記を書き、家ではホストマザーとご飯の準備をしながら一日の出来事の報告をし、夜は一緒にドラマを見ながら一時停止で解説をしてもらう、という英語漬けの生活を送り、スピーキングが伸びた実感はあまりありませんでしたが、リスニングは大分慣れたと感じました。
ちなみにこの時出会ったホストファミリーとは、20年以上経った今でも良き友人としての付き合いがあります。
帰国後、何か英語を仕事をしたいと思った私は、英語力を形で証明する必要性を感じ、TOEIC学習に力を入れます。
アルバイトをしながら英語の勉強。文法書を1冊買って最初のページから取り組み、洋書を読んでわからない単語を調べては単語帳にまとめ、TOEICの問題集を解いて復習。自分が契約できるレッスン回数には制限があったので頻繁には通えませんでしたが、英会話レッスンも続けていました。
TOEICの点数は700点→805点となり、就職したのですが、その仕事は1年半で辞めてワーキングホリデー参加を決意します。2度目のバンクーバーです。
ようやく見つけた心からやりたい仕事
同じホストファミリーのお世話になり、バンクーバーでの生活を始めた私は、カナダで仕事を得て移住出来ないかという甘い考えを抱きます。
日系の会社に履歴書を持っていったりしましたが、結果、1年半の事務経験しかない私のビザのスポンサーになってくれる会社を探すのは難しいと思い、早々に移住計画はあきらめました。
それからはカフェテリアでアルバイトをする毎日。お客さんではなく、自分がバンクーバーという社会の一員になったようで、ある種の達成感がありました。

ただ、ある日ふと思います。このままでは、ただカナダでアルバイトしただけ終わってしまう。今後の人生に何かプラスになることをしなくては・・・。
そこでTEFL(Teaching English as a Foreign Language)、つまり英語を教える方法を学ぶコースを受講することにしたのです。
結局選んだのは「先生」という仕事。英語は得意でなく、国語の先生を目指していた私が、回りまわって英語の先生を目指すとは、人生分からないものです。
この3ヶ月間は純粋に「教え方」だけを学ぶので、英語でデモレッスンをするための自分の英語力は自分で伸ばさなくてはいけません。
というわけで、発音クラスではあえて自分の苦手な音をレッスンの題材にしましたが、結果うまくできなくて悔しい思いをしました。講座終了後、昔の先生にプライベートレッスンで発音の訓練をしてもらったのは、今となってはいい思い出です。
帰国後、大手英会話学校に英会話講師として採用され、そこから13年の間、子供から大人、会話から文法、TOEICなど、様々なクラスを担当することになります。
続く英語への取り組み
英会話講師になってからも、失敗から学んだり、生徒さんの質問に答えるうちに成長したり・・・。また、英検1級取得の学習をしたり、翻訳の勉強をしてみたり、日々努力する生徒さん達に負けないよう、自分自身も英語学習をする毎日でした。
たくさんの方が夢を叶え、世界が広がる楽しさを経験しているのを見られるこの仕事は、とてもやりがいの大きい仕事だと思います。
私自身、英語力をここまで伸ばすのには膨大な時間とお金、労力を費やしましたが、英語業界の第一線で活躍されている方の本を読んだり、講演を聴いたりしたことを実際の指導に活かしてきて、改めてこう思います。
英語はやれば誰でも話せるようになる!そのための効率よい学び方がある!
英会話講師としての経験、そして研修会社でのカリキュラム作成や教材開発に関わった経験を活かし、皆さんが英語上達のためにより効率良い方法で学べるよう、サポートしていきたいと思っています。
たくさんの人に英語が使える人生を手に入れてもらいたい。
そして、英語を学びたい人に、達成まであきらめないで進み続けてほしい。
私のように、昔英語が苦手だった人も多いのではないかと思います。
自分の力で頑張ったけど、力尽きた人もいるかもしれません。
皆さんが夢を叶えるために立ち上がれるよう、そして目標に向かって進み続けられるよう、寺子屋ポラリスを立ち上げました。
一緒に楽しく進んでいきましょう!